国語科教員メモワール

国語科教員として感じたことを書いていきます。

生成AIを巡る

 生成AIが話題だ。ChatGPTを中心として、様々なAIシステムが、人間の思考を代替する形で、文章を練り上げる。正確にいえば、AIはデジタル空間に蓄積された膨大なログを、目的に沿って結合しているだけであって、それを単純に創作、とは認めることはできないが、ただ、結果として文字としての携帯が画面上に羅列されることは間違いがない。


 要するに、AIが人間の代わりに思考してくれる、ということなのだが、問題になっている点は、シンプルに言えば「教育」というコンテンツの中で、それがどれほど有効利用できるのか、という点にある。有用性は、言うまでもない。誰かが自分の代わりに文章を書いてほしい。そう願ったことのある人は少なくないだろう。その相棒として、AIがある。これは時代のなせる業だし、そうなる必然性すら感じられる。ある意味で、SFの世界が一歩現実に近づいた。そう言っていいだろう。


 理想を体現する。と言えば聞こえが良いが、それは同時に理性の使用の制限だとも言える。文明は徒にブラックボックスを増やしていく。古来、人間の頭脳は自己の管理下にあっただろう。もちろん、全てが解明されたのか。そんなことは毛頭ない。しかし、表現されるものは常に、自分の脳内を去来したものであって、それを肉体(筆記やタイピング)によって表出されたものだけである。ただ、その「ブラックボックス」こそが人の思考力の本質であるといっても過言ではない。


 管理下の中にある、管理不可能性。それを人はブラックボックスと呼ぶ。思考力とは、そのブラックボックスの「深み」にあると言える。不可知なる自己を醸成していくことが、教育、ことに国語教育において肝要であるならば、これらの内部世界が軽薄化されることは避けなければならないだろう。


 昨今、生成AIが問題視されていることはここだ。文章作成力の高低はもちろん、それ以前の論理性について注視しなければならないだろう。
 学校現場で問題とされているのは、読書感想文だ。自分で書かずに、AIが作品を書き上げる。問題は、「結果」のみを出力することによって、ブラックボックスの深淵が磨かれないことだ。そこには、ただの指先の運動が見せた結果だけが残る。


 それはもちろん、大きな問題なのだけれども、ただ、時代は間違いなく生成AI優位の世界へと突入していく。計算する際に、電卓を使わない人はいないし、より複雑な計算ならExcelソフトを使用するだろう。Excelは結果だけを提示する。

 しかし、その結果を抽出するための手順は、やはり「技能」であって、個々人が習得しなければならない。(生成AIがその手順さえも教えてくれたとしても、それを技術として摂取するマインドが必要だ)。

 現行、学校ではExcelだけを専門に教えてはいない。しかし、社会に出た瞬間に、その技能はもはや増すとの技能となり「できないやつが悪い」という自己責任にすり替わる。おそらく、生成AIの使用もそのような自己責任論へと転化していくだろう。すなわち、「生成AIを使いこなせない奴が悪いののだと」。

 諸々の視点から自称を考察していかなければならないが、ただ一つ言えることは、時代はもう変格の時を迎えていて、その時代の変化に沿って物事を柔軟に考えていかなければならないということだ。「感想文」という宿題フォーマットも、考え直す時期に来ているのかもしれない。感想文は、言うは易し行うは難し、という奴で、感想文を書くことは思いのほか難しい。字数も短くはないので、書けない子にとっては無理な流れも出てくる。また、感想文文体としての、一種の瑕疵も見逃せない。それは、「〇〇を為て、〇〇がありました。だから私は〇〇と思いました」という、敬体を基調とした、前後を粘土のように織り込みながら、文章を前に進めていく手法も、手垢がついてもう正直、鑑賞に堪えるものではない。

 この過程を経ることによって、どれほど文章緑が上がるのか、それは全くもって謎だ。読書習慣を醸成する、といっても感想文の宿題は年に一回だけだ。それをもってして、習慣とするのは無理があるし、やるにしても他の施策を中心に据えなければ目立った効力は生まれることはないだろう。


 生成AIについて付き合い方は色々あるだろう。ただし、私個人の感想から言えば、自分が文章を書く時には使用しないだろう、ということだ。あきらかに現行では文章の精度が低いのだ。そこに美学がないのだ。人の呼吸が反映されていない。そういった意味では、AIの文章は無機質で面白みがない。だから、必然的に生成AIの使用は必要がないのだ。ただ、文章の添削、などではその用途はまだまだ広いのかもしれない。

 いずれにしても、道半ばであり、これからより有用な使い方が見えてくるだろう。私たちは、物事の両義性を見きわめて、やや気長に物語の行く先を見つめる必要があるようだ。

選ばれること

 選ばれることが大切。どんな時でも、あらゆる選択肢において、自分が残り続けることが大切。学校の教員は、実は「選択肢」に残り続けてきた人間なのだ。現代の言い方に変えれば「陽キャ」ということになるだろう。

 

 陽キャの定義は、人によって多様だとは思うけれども、その存在はきわめて相対的な位置づけになる。世界から、阻害され、選択から落ちた人間は実に多い。多いといっても、それは少数派だ。人は、世界のいずれかの選択肢に掬い上げられ、その選択の結果に自我が紐付けされ、広範な世界の隅っこでも自分の立ち位置を求めることができる。

 

 しかしどうだろう。真実において、選択されないで、世界の底にまで濾過され続ける人間がいる。真皮が剥がされ、ただ孤独が露見する。そういう人たちは、闇の力にとらわれやすい。彼らは、自死を選択肢、犯罪へと向かう。彼らが他人を傷つけるとき、それ以上に自分を攻撃し続けるのだ。

 

その連鎖を止めなければいけない。しかし、「選ばれしもの」に、その連鎖を止められない。その鎖は可視化されえない。自己の体験と照応する形で、社会の動静の中から引き出していく必要がある。感覚、としかいいようのないものだ。「持つもの」と「持たざるもの」。二種の人種が、奇妙な饗宴を果たす。持たざるものは不可視の使徒。見えないものは、やはり見えない。それに気付くのは至難の業だ。

 

 選ばれることは大切だ。それは、むしろ必定ですらある。しかし、残置された勝者が構成する公共は、やはり奇妙な造形物であるようにしか思えない。それは、広義の意味で多様性を欠く。もっと、敗者を引き入れなければいけない。下降する人間の、世界の引力で引き剥がされる裸の自己を、知る人間を。

詩人のたしなみ

 詩人であれ。詩人は、良い。それは言葉を操れる。言葉を操ることは、同時に世界を操ることにつながる。複雑に世界を語ることも、単純に世界を閉ざすこともできる。生み出すことも、また、壊すことも。すべてを自由にできるのだ。

 

 唯名論の使者、朝を告げる小鳥たちの群れ。愛と悲しみのバベル。

 

 詩人は、場所を選ばない。世界は、その知性の中で生まれる。始まりと終わりが交錯する。生命の輪廻が顔を覗かせる。

 

 詩人は出会い、そして別れる。新しい自己に目覚める。他者が、自己に環流される時、人ははじめて人になる。詩人は、言葉で自分を作りあげるのだ。それは鹿の骨で作る呪いのようであり、鉄の芯で組み上げる近代のようでもある。それは儚く、そして屈強だ。

 かつて、街には巨人が闊歩した。豪腕を古い、権力を握った。砂上の楼閣で、未来を占ったのだ。占術が横行し、不安が話題の種になる。憎しみを売買して、愛を物々交換する。

 

 詩ならば、許容される。あらゆる、憎悪も、また愛惜も。

 

 人は、如何にして詩人になるのか。難解な問いだが、答えはシンプルだ。人は、落ちていく。日常から足を滑らせて、不意に、そして偶発的に。それは不可避なる自己だ。望むと望まざるとに関わらず、混濁し、合成される。非日常が、日常に組み込まれる時、物事の対象化が不可能になる。世界は混線し、曖昧になる。世界を宇宙の果てまで、伸ばしていってもなお、その世界は世界であり続けるのだろうか。

 

 言葉の連結の中に、わずかは意味が生まれ、その矮小な意味から、遠大な宇宙を夢想する。空の果てへの改案は、まるで鳥の足跡しかないように、はかなく脆い。砂浜に描かれた大地の記憶は、全て波がさらっていってしまった。文字として、残らない記憶。しかしそれを誰も否定できない。概念としての実態が、物質としての虚構を越えていく。

 

 世界の端っこから落ちてしまった。そして、人は詩人になる。詩人にならざるを得ない。人前で、思い切り泣けたなら、どんなにか楽になれるだろう。人前で、寂しいと告げることができたなら、どんなにか人間らしくなれるだろう。

 詩人は、不器用なのだ。他人に甘えられない。他人を信用できない。言葉を介さなければ、人を見つめることもできないのだ。愛が身体の心の交流を指すのであれば、詩人は愛を知らない人間なのだ。愛は心理か、はたまた、心理こそ愛なのか。その逆説を撫でるのが、詩人なのだ。無だからこそ有を見る。はかない世界だ。

 しかし、それはある。それを、言葉に変換する。詩人の生き方の醍醐味だ。うつろいゆくもの。滅びゆくもの。視界のかすかに留まりゆく、素粒子のような情念。言葉で、それらを掬い上げ、つり上げる。抱擁を交わし、茫洋たる世界を、身近な四畳半に美しく収めるのだ。

 詩人のたしなみ。それは、世界を溶融し、新たに世界を再構成する。新たな創世が、個人の狭量な世界の中で行われる。しかし、だからこそその世界は豊満で、甘美だ。自己の内側にできる小さな小部屋。

 詩人は、その小部屋に沈潜し、熟考する。正しい世界はどこにあるのだろうかと。正しい答えなんてないと気付く頃には、詩人の人生は幕を下ろす。人知れず、夜のとばりに閉ざされて。闇の中で歌う。言葉なくても、言葉を越えて歌う。世界に隠された秘密。誰の記憶に残らない恭順の情。

 

詩人は静かに世界を暴く。誰にも悟られないように、誰にも批評されないように。鋭利な目で、温厚な腕で。

 

 

ストレス発散には、文章

  ストレス発散には、文章を書くことが良い。とにかく、悩みを全て言葉にして吐き出す。内側にためないことが大切だ。感情の力は侮れない。ストレスで胃潰瘍になるくらいだ。ネガティブなエネルギーが胃に穴を開けるならば、ポジティブなエネルギーは、自身の目の前に立ちはだかる壁に穴を開けるだけの力があるはずだ。

 

その力を呼び起こすためには、自分の体を一旦空ににしないといけない。そのための方法は、色々あるだろうが、やはり言葉にすることだ。言葉にして、世界に向けて発表していく。誰が読むのか、その結果はどうでもいい。

 

ただ、その言葉を世界に向けて発信することで、自分の中にある、複雑な感情を消し去っていく必要がある。改めて、世界とは言葉だ。言葉によって、世界が世界として位置づけられていく。その言葉をどのように持つのか、そこには大きな意味がある。もしも言葉がなかったら、という問いは実は不毛だ。なぜならば、言葉がなければ、そのような問いも必然的に生まれないからだ。

 

すべては言葉が作りあげる。この胸の悩みも、悲しみも。ならば、その言葉を制御する以外に、自分の懊悩を解消する術はない。だから、言葉にする。言葉にしなければならない。強固に、言語で凝縮した世界を、今度は言葉で解凍する。獲得と喪失が、両義的に機能して、世界の混沌を鎮めるのだ。

 

 言葉にする週刊を持つことが、自分の感情を制御する上で大切なのだろう。国語とは、自分を操るためにある。ただ、言葉を表出するだけではない。複雑に入り組んだ世界を、言葉で買いたいしていく。その意味で、日々の勉強は大切だろう。例えば、辞書をめくる、新聞を読む、等である。ただし、あまりにも言葉が増えてくると、かえって悩みも増える。謎は、その謎を解こうとする人を苦しめる。しかし、人生には、解決すべき偉大なる謎がある方が面白い。ある程度の負荷が、人生を美しく、メリハリのあるものにするのかもしれない。そのバランスをどう取るのか、そこが問題なのだろう。

 

 言葉を練り上げるなかで、気付くことも沢山ある。目的があって、文章を書くという人も多いかもしれない。もちろん、その目的性は、必然だ。しかし、逆もまた真である。すなわち、書くことによって考えることができる。目的と行動は、この時不思議と合致する。書くという事実によって、考えるという事実をたぐり寄せることができるのだ。

 

 その手段と目的の逆説的な一致。だからこそ、書くことが必要なのだ。呆然と思考を巡らせることも大切。しかし、文字として書き残しておくことも大切だ。

 

 この動作は、別段読み手を必要としない。無論、文章であるのだから、読者は想定されるべきだ。それは想定的読者といってもよく、事実上の読者である必要もない。世界には一生かけても処理できないだけの文章が溢れていて、ここで文章を練り上げたところでそれを目にする人はほとんどいないだろう。私が、特別な肩書きをもった立場にいない限り。専門性が文章の中にある必要ない。ただ、常に心を正常に保つためには、膨張しすぎた言語は、適宜言葉に落とし込んで、客体化することによって、うまく折り合いをつけていく必要があると思う。

 

 世界が多様化するのかで、人々の摩耗も一昔前とは比べものにならない。些末な問題が、大きな事態へと発展することも少なくない。トラブルをすべて避けて、生きていくことはできない。どこからで人はつまずいてしまうものだ。もしくは、つまずかされてしまう。

 

そのような状況の中でうまく自分をコントロールしていく。その意味で、言葉にしていく力。それが重要になるだろう。

 

問題を作ること

 国語の能力とは色々なものがある。多くは、読むとか書くとか、そういった一般的能力に類するものだ。もちろん、それらの能力が大切であることには一抹の疑いもない。ないのだけれども、それが本質なのかというとそうでもない気がする。


 必要とされる能力は時代によって、変わっていくのは百も承知だが、昨今の情勢を踏まえて、今必要なことはタイトルにあげた「問題を作ること」であるような気がする。問題を作る、とは何も、中間試験や期末試験の問題を自作することではない。ここでいう「問題」とは、直近で解決すべきククエスチョンではなく、長期的に取り組むべきタスクである。このタスクを発見する力が、国語として必要な能力として、重点的に取り上げられてもよいのではないだろうか。そう思う。


 国語の問題は常に一過性だ。すなわち、再現性がない。「~の気持ち」を選べ、なんて、よくある問題の一つだが、それらは一回回答を知ってしまえば、次にゴトウを選択することは限りに無く難しい。回答を知るということは、すなわち、考える手間を全て捨てるということだ。その「楽」を一旦知った後に、元通りの選択肢をフラットな気持ちで吟味することは難しい。すべては、もう終わったことであり、その選択肢が、改めて自分たちのもとに現れることがない。すべては、一期一会のものなのだ。一体、その選択肢を選ぶ能力にどのような意味があるのだろう。
 それは、全く意味がないとうことではないのかもしれない。問題を解く、というのは、已然として、多くの入試システムが才能している形式だ。そのシステムうに適応していくというのは、豊かな人生を切り拓いていく上では必要となる能力なのだろう。
 しかし、それを手放しで喜んでもいられない。おそらく、時代はもっともっと急速Ⅱ辺かを遂げていくだろう。学校で、古文漢文を読むこともいずれ時代が、それを許さなくなるだろう。断言はできないが、昨今の教育論壇においては、それほどの革命が常に起こっているということを忘れてはならない。世界はどんどん形を変えていく。そのかたちに適応していく能力が大切なのだ。


 その意味で、問題を解く、ではなく、問題を作り出すことが大切。という冒頭の主張になる。問題を抱くとは、ただ反発を抱くということではない。不満をぶつけることは、疑問を持つことではない。批評家であっても、批判者であるな。限りなく創造者たれ。そう私は思うのだ。えそのための力を養うのが、学校教育の今後のビジョンであり、国語科教育の持つミッションなのでは無いかと思う。


 もちろん、問題を作る上では、問題を解く能力が必要なのかもしれない。しかし、その解決能力の向上に関して、多くのリソースが裂かれているのは間違いがない。
 その能力の多寡は、創造力の貧富と連関性があるのだろう。社会の上で、パスポートとして学歴が左右されるという意味において言えば、間違いなく有用だ。しかし、あらゆるシステムから脱却する中で、自分らしく自分の言葉で表現する能力は、必ずしも、学歴の土台とするものではないような気がする。 


 問題を作る、というのは要するに問題を発見することである。発見をするには、社会全般における諸事象についての知識が必要になってくる。つまり、「点」としての理解だ。それらの点を複数でつなげ、「面」とする。そのなあkで見えてくる映像こそが、弦社会が持ちうる問題なのだろう。その複線的に物事をつなげ考えていく力こそが、今後求められていく力なのだろう。

 今後求められていく力とは、すなわち、AIによって代替されない能力という意味だ。点としてAIは強い。ならば、面ではどうか。

 今、複雑な世界を単純かし、その問題を発掘する力が求められている。
 

 朝は辞書から始まる

 朝、とりあえず、言葉を集める。空っぽになった言葉に言葉を入れる。それが朝のルーティンだ。朝、といっても休日の朝、という条件が付く。日常の朝は忙しすぎてそんなことをやっている時間はない。

 

 脳、というのはやはり学習が必要で、学習をしないと徐々にに退化していってしまう。おそらく、言葉に関わる脳の箇所も、きっと衰退していく。それは、もちろん、小説を読むだとか、文章を書くだとか、そのようなアウトプットを繰り返すことによって、維持されていくのだろうと思う。

 

 しかし、とはいっても、そのような動作は、競技としての能力を養うことと同じで、もっち根源的な筋力はそれとは別個のものとして鍛えなければならない。文章を練り上げるには、その最小単位としての語句を覚えていなければならない。

 語句がどこから運ばれてくるのか。その工程を探ることは実に難しい。例えば、テレビ等で流れた言葉を人は無意識でインプットしてしまうものだ。その意味ではそれらの行動も立派な勉強ということになる。

 

 勉強も一つのトレーニングだとしたら、問題は、負荷となる。どのような負荷をかけることによって自分を成長させるのか。その点について考え無ければならない。バラエティ番組でもおそらく自分は成長していくのだろう。間違いなく、確実に。自分は未来へと進んでいく。その意味で必ず人は接種した情報を元に成長していくはずなのだ。

 どうせ、言葉を成長させていくならば、よりよい栄養を摂取した方がいいだろう。より、確実な負荷をかけた方がいいだろう。その意味で、辞書での言葉探しを推奨したい。

 

 昨今では、もう辞書を使っている人なんてほとんどいないかもしれない。もちろん、効率という観点から見れば、辞書の使用は時代に逆行しているとも捉えられる。しかし、それはそれでいいのだ。

 

 大切なことは脳を鍛えること。その意味で考えれば、昨今話題の生成AIを使うことの是非も、それほどとやかく言う必要はないだろう。

 効率を考えれば、それらを積極的に使用するべきだ。読書感想文が簡単に書けてしまうのではないか、などと生成AIの諸問題についてよく言われるが、その問題は実に些末な問題だ。

 すなわち、読書感想文を辞めればいいのだ。目的は、脳を鍛えること。表現者としての素養を養うこと。その目的を、完遂させることができれば、何も読書感想文でなくてもかまわない。本を読まなくなる、という指摘もあるが、読書感想文だけでしか本を読まない子どもは、そもそも読書感想文を採用したとて読書の習慣がつくことはないだろう。

 問題の根っこは別の場所にあるのだ。その根っこにある諸問題を丁寧に処理しなければ、複雑に文化した問題に対応していくことはできないだろう。

 辞書を使うこと。さらに言えば、習慣として読むということはちょっと普通の人からすると考えられないかもしれない。とはいえ、時刻表を見て、楽しめる人がいるように、辞書を見て楽しめる人もいるのだ。色々な価値を認めること。それが多様性の本来の在り方だろう。

 なんとなく眺めている。それだけでも勉強になる。そして、世の中には本当に多様な辞書が出来ているものだ。そのような分野を限定した辞典を覗くと、自身の世界の広がりを確認することができる。それと同時に、いかに自分の世界が語義の上で狭隘なものであったかを自覚させられてしまうのだ。

 一杯の珈琲の前に、一見の辞書。そんな習慣を持つことも悪くない。

 

 

 

 

文章を書くこと。ブログ事始め

 結局、文章を書いているのが好きで、それだけでいいのかもしれない。書くことに意味があるとは思えないし、書き続けることによって幸せになるとは思えないしかし。それを続けることで、自分がとっても幸せになっているように感じる。とにかく、自分の思いを言葉に載せる。多少の誤字脱字は気にしなくてもよい。それはきっと、人間の領域ではなくて、機械の仕事になるだろう。


 記録を残していくことが大切だと思う。それは、昼間の仕事ではないのかもしれない。昼間の、おっくうさは一体どこから来るのだろう。自分が狭くなるかんじtがする。とにかく、今は、事aを増やしていく必要がある。短い言葉で、単純な言葉で。正しい世界を描きたい。もっと、地涌でいいのかもしれない。なんでもいいから、書けばいいのかもしれない。目的を持って描ければいいのかもしれない。
 心機一転の投稿。毎日を述べていく。日常を言葉にする。
 国語教員として、伝えるべきことを、書き尽くす。それは他人に、向けた言葉にならないかもしれない。もしかしたら、自分の自己満足で終わるかもしれない。しかし、それを残すことに何が意味があるのだと重う。


 武将を書くことは、自分の頭の中を掃除することだ。ただ、目的的に書けばいいというものでもない。さすらうように、重いついたことを核ことも大切だ。


 もちろん、国語科として、書くことは何寄りも大切だ。国語を通して日々感じること、これからの国語について。そして、自分が見聞きしてきた、様々な情報。それらを伝えていきたい。それが自分を支える力になる。無数の言葉が頭の中を這いずり回っている。小さな虫のように、脳裏をぐるぐると言葉が明け回る。それはきっと、国語科としては、ある程度必要な力なのだろうと思う。しかし、
あまりにも、その虫が頭の中を這いずり回るようでは問題だ。それらをある程度は駆除しなければならないだろう。それを可能にするのは、この文章を書く、という行為なのだと思う。思考の虫を、駆除するに必要なことはやはり思考することなのだ。そして、それをより確実に行うのが、おそらく「書く」ということなのだ。


  書くことは、きっと読むことにも繋がる。アウトプットをするためには、インプットが必要不可欠だ。どこかで、自分の発想を練り上げるための秘密基地があってもいい。その秘密基地は誰にでもあるわけではない。その基地ができるのは、ほとんど、人間関係等によるものだと重う。しかし、だからこそ、この場で、ネット空間の中に自分の言論スペースを保っておかなければならない考えた。誰にでも、気兼ねなく自分の言葉を発信することができる場所を、持つことによることで、自分の精神の安定にもつながる。


 普段は、学校で勤めていても、必ずしも自分の思った通りに、授業を進めることができるわけではない。人間関係が十全に進むわけではない。教科としての理解や、指導技術が最高潮に達しているわけでもない。むろん、プロフェッションとして現場に立つわけなので、ある程度の地検を蓄えているつもりではある。ただ、それはあくまでもつもりになっているだけかもしれない。


 教育とは、なんて甘美な響きで、それでいて、なんて不安定な響きあろう。わかっているようで、わからない。そして、それらを行う必然性ももうないのかもしれない。AIがどこまで人を成長させうるのか。その能力を今後、どのように押し量るのか。考えるべきことは多い。いや、考えるからこそ、考えることが多いことに気付いたのだ。思考するプロセルを持つこと。それが自分に必要なことで、このブログを薦めていく意味である。忙しさにかまけて停止となる可能性もあるし、そうかもしれない。でも、書くことが必要だ。今の自分にはそれが必要だ。