国語科教員メモワール

国語科教員として感じたことを書いていきます。

手書きで文字を書き起こすということ

 新しい筆ペンをアマゾンで購入。すんなりした書き味には好感が持てる。なんだか良い文章が書けるような気がする。

 文字を書くということは、「肉体」を行使する作業であるように思う。文字を白面の加味(あるいはワープロの画面)に書きつける。そこには無から有への質的な生成があり、それは、質量の分配にほかならない。文章を書くということは、思考のトークンを複製し、そしてそれらを市場へと転回していくことである。複製され、拡散されたトークンが他者へと思想を伝播し、また、それらの受領人が思想を複製し、次の人へとそのバトンを受け渡す。言葉はその意味で他者へと感染していくものなのである。

 文章を書くということに関しては、おそらくPCを用いた作業の方が圧倒的に効率的である。しかし、だからといって手書きの意味合いが全く失われたわかではない。0から1にエネルギーを生み出すという点に関しては(非常に個人的な感覚ではあるが)、手書きの味わいもあるように思う。手書きの利点は、「不器用」であるということだ。それに対してパソコンは「器用」すぎる。思考はあまりにも早く、ジェットコースターのように通り過ぎるが、手書きの文字はその肉体の稼働上、どうしても時間の上で制約がかかる。七並べのようにしこうの流れは肉体の上で、寸断し、指先というエネルギーの射出甲でつまるのである。その点では、不器用で、停滞している。しかし、その停滞しているという点が、かえって、エネルギーの運用では重要な意味を持つと思う。何もない白面を見ると恐怖を覚える。理性によって、それらは監督されるのだ。しかし、肉体はどちらかというと感情であり、本能だ。論理を超えたところで、文字が白面を埋めていく。いわば、野生の力によって、初出の原稿を生み出すことができるのである。

 とにかく、文章の複雑な点は、最初に何を書くのか、であるとうに思う。その最初に何を書くのか、という点をクリアするには、手書きを用いて文章を生成するということは非常に有用であると思う。文字は時間と重力の産物である。その意味では、肉体を介在させるということは非常に大きな意味があるように思う。世にたくさんの文章の道があるように思う。この「手書き」を用いて、すなわち「肉体」を用いて書くという発想は一つの方法論として十分に検討される余地がある。ただし、肉体は「疲弊」する。その点において、どうやってそのストレスを軽減していくかは大きな課題だ。ボールペンを使うのか、鉛筆を使うのか。筆ペンを使うのか。どのような筆記具があれば、自分の思想をシームレスに髪に落としこむことができるのか。色々なアイテムを駆使して考えていく必要があるように思う。

空間と授業と

 空間的に言葉を紡ぐ。それは実体があってはいけない。空虚である必要がある。人は空虚を是としない。隙間を埋めようと想像力を高めていく。空疎は、逆説的に密を呼び込む。大切なことは、想像を呼び込むことだ。それこそが授業時の、創造性につながる。教員は、有を作りだすのではなく、無をそこに設置する必要がある。無を呼び込む。それは、簡単なようで難しい。漠然とした中に画然としたものを作り出す必要がある。漠然でありながら、それでいて明瞭でなければならないのだ。それはもちろん矛盾である。しかし、それは実在なのだ。無だからこそ有であり、有であるからこそ無である。その逆説の上に思考空間は横たわる。

 すべては緩急だ。ネジを締める時もあれば、緩める時もある。それらを生徒実体と絡め、展開を制御する。授業は変形だ。常に流動的であり、留まることを知らない。すべては行雲流水。形に収まり、型に従う。すべては鋳型のなすまま。その鋳型をどのように設計、そして、設置するのか。それが授業計画の本質的なところだろう。

 型を用意するだけではいけない。その型の中に入った液体を、外部から揺れ動かす必要がある。思考とは波紋だ。揺れ動く思考の波の中にこそ、想像が生まれる。想像は、連鎖する。一つの波が、次の波を呼び起こす。伝播するエネルギーが、無尽蔵に膨れ上がる。そこまでいけばしめたもの。問題は、初動のエネルギーをどのように働きかけるのか、である。

 発問は限定的である時もあれば、非限定的であるときもある。一つしかないもの。そして、多様な選択肢があるもの。想像が溢出するその出口を発問によって作り出す。いわば、発問とは穿孔であって、隙間をくり抜くことによって、内なる想像の原液を抽出する。どんな発問によって、どれだけの原液を取り出すのか。それもまた授業者による工夫のしがいのあるところなのではないだろうか。

 授業にはやはり目的がある。発問はその目的にそって行われるべきだ。問を繰り返し、真理に迫っていく。螺旋状に世界の中枢へと下降し、世界の深奥へとたどり着く。そこは光の届かない闇の世界だ。それは真なる「無」の世界である。そこでこそ、真の自由が保証され、無限の創造力が生み出される。しかし、そこに至るには苦しみもある。模糊とした闇の中でも、思惟をたゆまず、内省的に自己を深めることができるのか。それを伴走者として、共に世界の臍に降下することができるのか。それは大きな課題だ。世界の真理の案内人として教員は立つ。そこにたどり着くのはやはり自分の足であり、意志であるべきである。その船出の「背中」をぽんと押してやること。それが、今求められている教師のあり方であり、子どもたちの成長にとって必要なことなのだろう。

 

テーマを立てること。それは、目標を決めることにつながる。

 テーマの設定が大事かなと思います。目標も大事であるが、その目標以前に、もっと大雑把にどのようなものに関してフォーカスしていくのか、という点においてこの「テーマ」の重要性が挙げられると思う。テーマは、もちろん主題であって、自身が集約すべき哲学そのものである。例えば、「読解力の向上」であるというテーマを挙げた上で、そのテーマを充足するための方法として、「文脈の把握」であるとか「登場人物と心情の把握」などといった過程としての目標を持つべきなのだと思う。大目標としてのテーマを明確にした上で、小目標としての目当てなどを設定していくことが必要なのではないかと考えている。

「テーマ」は「先ほどの「読解力の向上」などといったような形でも構わないし、もっと広く「ファッション」などでもいい。さらにその上位概念を探れば、「文学」「社会学」「数学」などと、学問の総記としての分類に立ち至るのではないだろうか。それらをテーマとして、自分の方向性を分けていき、自分の考えの道筋を把握していくことが大事なんじゃないかなというふうに思います。時間は有限です。何をするにも時間を必要とする。文章を効果的に書くには、また、効率的に書くには、このような思考のフレームワークをしっかりと持って書いていくことが必要なのではないかと思います。

 有限な時間を有益なものにしていく。それが肝要かと。

 自分の興味関心をしっかりと集約しておく必要があるだろうと思う。その時々に自分がやりたい、知りたいと思ったことや、自分の考えなどをしっかりとまとめていく必要があるでしょう。もちろん、ときには休みも必要だし、一つテーマばかりに固執する必要はないと思う。しかし、一人の人生として生きる上で、常に何かしら世界に関心を持って取り組んでいく必要はあるのではないでしょうか。それがすなわち「どうやって生きるのか」ということとリンクしていて、それがそのまま人生の目標となっている。テーマに即して、目標が生まれ、その目標が自分を次のステージへと運ぶ。

 たとえ、今はテーマとか目標というものが具体的にはなかったとしても、常に自分の育成を繰り返していく必要があるのです。不安を感じた時には、大雑把でもいい。何かしら自分の指針となるテーマを持つべきです。それに付随して、目標はついてくるでしょう。

 目標も色々あります。大別すれば「行動的な目標」「精神的な目標」でしょう。行動的な目標は「〇〇をする」というアクションです。「精神的な目標」は「〇〇を深める」といった、心の力を涵養する時間。もちろん、それらはどちらも互いにリンクしています。

 まずは、主題を決めよう。大きな旗印が立てば、自分の力はそこに向かう。散りばめられた胆力を、今こそ一つに集めるべきなのです。

めあて と ふりかえり

 人生の目的は何か。

 その年の目的は何か。その日の目的は何か。

 その人ごとの目的がある。それは授業でも求められる。それが「めあて」。そして、自分の活動の軌跡をあとから、見て改善していく。それが振り返りである。おそらく、PDCAサイクルなどのビジネスモデルと教育モデルの融合を果たしてものだと思う。この「めあて」と「ふりかえり」。昔からよく使われていたけれども、最近になったそれはもう必定とも言えるものに進化したように思う。

 授業は目的が必要で、その目的に対してどのようなアプローチを講じるのか。それこそが授業の本懐であるという。そして、最後に自分の活動を振り返り、それらをまとめとする。もはや授業全体はシステム化され、一つひとつのパーツのあり方は明確化されている。思考を止めたとしても、全体のシステムとしては稼働し続ける。

 だが、本当にそうだろうか。このシステムは絶対的なのだろうか。そこには疑義を抱かざるを得ない。人には目的が必要ない時もある。目的を持たないものの方がいい時もある。全部が全部型にはまる必要はない。ただ、型がなければ、考える際に不便であるという点も理解できる。

 何をすればいいのか、と考えた問に型があると確かに便利だ。そのパーツを揃え、その物事の整合性を整えさえすればもうすべて完成する。しかし、型はあくまでも「型」なのである。それは一つの思想を全体に強制するものではないはずである。思想は自由でいい。それを表現するための近道として型がある。しかし、必ずしもすべての存在が近道を通る必要はない。遠回りをすることも時には必要である。それを他人から命令される筋合いはあいし、それを強制される義理もない。ましてや、子どもと正対する教室という場において、過度に思想に介入する「型」の存在は時によってはかえって迷惑である。

 また、授業は生き物でもある。状況によっていくらでも変容する。生徒一人一人の発達段階によって大きく変化してくる。極論、その日の天候によっても、内情はかわってくるはずだ。もちろん、それは極論ではあるが。

 とかく、すべては「普遍」ではない。すべては状況によって変化を遂げる。世界は、柔軟に変化する。変化するということこそが世界の「型」であり、普遍でないということこそが「普遍」なのだ。その不確実性をもって、授業システムを構築しなければいけない。行雲流水。感情の流れを明確に掴み、それらを授業全体に丹念に組み込む。それらを補助するために「型」がある。

 めあては持つべきだ。しかし、囚われてはいけない。現状の認知と改善策は重要だ。しかし、いつも過去を振り返る必要はない。ひたすら、前に進む必要もある。 

 めあてと振り返り。それはまるで人生。さあ、何を目指して進もうか。

 

はじまりはいつも

 アイデアのはじまりは、いつも散歩の中から生まれる。歩くのはとても重要だ。ぼんやりとした思考も、歩いているうちに確たる思想へと変化する。もちろん、0から1へと発想を生じさせる段においてもそれは有意味であると言えるだろう。

 西田幾多郎哲学の道は有名だが、それほど交渉なものと比較しなくても、散歩の効果は絶大だ。私は、よく授業準備のために散歩に出る。新しい着想を手に入れたい時もあれば、考えたことをまとめる時間がほしい時もある。最終的な出力はもちろんPCではあるのだけれども、初発の想像を惹起するには、ゆるやかに肉体を起こしていく必要がある。世界の隙間に、自分の肉体をはさみ込んでいくのだ。

 そうして、じりじりと自分と世界とのリズムをあわせる。そのような時間を担保するのが、散歩の時間なのだ。ただ、PCの前に座っているだけではその感覚は得られないだろう。豊かな着想を得るためには、ただ、指先だけに任せていてはいけない。指先は、着想を流していくには有用だ。しかし、そのゼロとしての着想はもっと深い肉体の中にある。だからこそ、文体を獲得するには肉体をゆるやかに目覚めさせていく必要があるのだ。

 散歩はとても簡単だ。単純に「好きな場所を歩けばいい」である。自分の思い立った時に、自分の歩きた道を歩く。なんとなく歩く中で、新しい発見があるだろうし、自分の中で点在していた観念もおのずと収束してくる。

 この時は、私は音楽を聞いたり、スマホを見たりはしない。どうにも、イヤホンで耳を塞ぐおとは、散歩の意味を少しだけ奪っているような気がするのだ。ただ、歩くという動作の中で、世界を観察していく。それはもちろん、目の届く非常に小さい範囲だけれどもとても重要な時間だ。その貴重な時間を、些末な音楽で消費してしまうのはなんともいえない。耳の自由を、イヤホンに奪われてはいけないのだ。

 授業準備と称して、校内をウロウロしている私に周りの目は厳しい。しかし、私にとってのその時間は授業を創造する上では必要な時間なのだ。自分の感覚のチャンネルを閉じてはいけない。複合的なチャネルを時間の中にもっておいて、そこから摂取された様々な情報を後々咀嚼してしていけばいいのだ。

 そのチャンネルの精度を高めるための仕組みとして散歩がある。静かに厳かにしかし楽しく。それが私ならでは散歩だ。

 さあ、明日はどこへ散歩に出かけようか。

学習指導案

 学習指導案を書く。これは、誰しもが通るみち。しかし、日常の授業の中ではほとんど顧みられない。ただ、特別の授業の実施時には、その内容が重要視される。何を書くべきなのか。もちろん、それは授業の計画を書くべきだ。もちろん、そこには計画が書かれている。しかし、その計画はどうにも腑に落ちない。なぜ腑に落ちないのだろう。考えてみれば、その内容のほとんどが、実用性に欠くからだ。

 学習指導要領の内容を教えるの授業だ、と教わる。なるほど、それは一理ある。教科書を教えるのではなく教科書で(指導要領の内容を)教えるのだ。学習指導案の内容は実質的には、その構成は、実質的な授業計画というよりも観念としての授業内容の計画のように思える。要するに、絵に描いた餅だ。しかし、絵に描いた餅でも、圧倒的にリアルに描かれていればそれが力を持つ。

 何をもって「観念」なのか。それは逆説だが、「実」を持たないという点において観念だ。生徒がいて、教科書があって、教師がいる。この3つの点から生まれる「面」としての空間を考えてみれば、指導要領は観念的にならざるを得ない。つまり、可変的な要素が多量にある中で、「〇〇ができる」と単元の目標を限定されてしまえば、極めて狭い可動域だけで動くことになる。それはかえって窮屈だ。もしかしたら授業としての骨格は決まるかもしれないが、しかし、それによって、自由度を失う。

 計画は立てるもの。計画に支配されてしまえば、それは計画とはいえないだろう。

国語力とは

 国語力とはなんだろう。非常に曖昧な概念だ。

 国語の力、とは。

 国語とは非常に不思議な科目だ。なぜかというと、まず教科名が「日本語」ではない。日本語を主に扱う科目であるに、疑いの余地はないが、その教科の名前は日本語ではない。しかし、国語とはまさに「日本語を十分操る能力」を育成するための科目であるように思われる。

 およそ、国語の範囲に収まるものはなんだろう。そう考えると実に多い。国語の授業の中で取り扱うことができるだろう観点をここに挙げてみる。

 

 日本語、漢字、語彙、文脈、読解、速読、構成、古文、漢文、日本文化、俳句、短歌、小説、評論、随筆、読書論、読書習慣、選評、話す、落語、演説、説明、アナウンス、演技力、思考、調査、情報、インターネット、図書、雑誌、図書館、地域性、時代性、心理、キャッチコピー、脚本、ドラマ、ラジオドラマ、映画、アニメ、狂言、歌舞伎、能、手紙、日記、ゲーム、漫画、ブログ、ツイート、朗読、音読、表音文字表意文字、詩吟、謡曲、定型、非定型、哲学、音楽、カタカナ、平仮名、書写、書道、硬筆、辞書、電子辞書、百科事典、手話、点字、ボディランゲージ、論文、絵文字、メール、LINE、SNS、方言、公用語、文法、序論本論結論、構想力、独創性、引用、グループワーク、プログラミング思考、ツリー方式、ディレクトリ構想、形式段落、意味段落、段落、青空文庫著作権日本語教育検定、橋下進吉、時枝誠記文学史テキストエディタ、インタビュー、連、比喩、倒置法、体言止め、過去(~た)、現在形(~する)、原稿用紙、マトリクス、「重力」、検索子(And、Not)、脳内黒板、写生、写実、モチーフ、章、節、文、民話、伝承、神話、物語論、ナラティブ、ストーリー、カーニヴァル論、ヴォイス、SF、ファンタジー、児童文学、絵本、無意識、振り返り、紀行文、メモ、ブレインウオッシュ、スラング、言葉遣い、品性、下町方言、新聞、視写、写経、発問、板書、落語、上方落語、ビジネス文書、公文書、説明書、法律、文語、口語、言文一致体、候文、アイデア、現代文、テスト問題における読解、タイトル、箱書き、柱、Google scholor、Cinii、ビブリオバトル、ブックトークyoutubetiktokinstagramtwitter、スピーチ

 

 これだけの観点を挙げることができる。いかがだろうか。少し無理なものもあるがそれはここではご容赦願いたい。要するに、様々なものが国語を通して表現できる、あるいは、国語を通して考えることができるということなのである。

 国語力とは、これらの様々な観点・ツールを通して、自分の考えを表現することだと定義することができるだろう。

 これらをさらに国語の一般的な概念に分類していく。例えば「読む」「書く」「聞く」「話す」の四観点に分類する。例えば、インターネットを「読む」となれば、インターネットに関する文献を読むことや、インターネットを介した様々な事象を確認することになる。

 そこからさらに「読む」とは何をどう読むのか。どんな文章を読むのか。読んだ上で、その知識をどのように運用するのか、といった観点に分かれる。

 

 このように教えるべき、とは学習指導要領に書いてあるが、実践の場としてはもっと自分に自身にわかりやすい形に落とし込んでやる必要がある。自分自身に分かりやすくとは、もっと言えば生徒自身が理解し易い形に噛み砕くということでもある。

 「語句の意味を理解して、文章を理解することができる」など、ある程度実践的な目標を自分の中でもっって、実際の授業に臨んでいく必要があるだろう。

 日本語を操り、自分の思考を表現する。それが、国語の力である。ただ、日本語をしゃべるだけではない。その言葉を用いて、何を伝えるのか。その「何」を重要視することが大切だ。表現するべき対象を引き寄せる力、その表現するものを調べる力。それらはすべて国語力なのだ。

 世界と自分を言葉でつなげる。そんな国語の世界をさらに深く考えていきたい。