国語科教員メモワール

国語科教員として感じたことを書いていきます。

ストレス発散には、文章

  ストレス発散には、文章を書くことが良い。とにかく、悩みを全て言葉にして吐き出す。内側にためないことが大切だ。感情の力は侮れない。ストレスで胃潰瘍になるくらいだ。ネガティブなエネルギーが胃に穴を開けるならば、ポジティブなエネルギーは、自身の目の前に立ちはだかる壁に穴を開けるだけの力があるはずだ。

 

その力を呼び起こすためには、自分の体を一旦空ににしないといけない。そのための方法は、色々あるだろうが、やはり言葉にすることだ。言葉にして、世界に向けて発表していく。誰が読むのか、その結果はどうでもいい。

 

ただ、その言葉を世界に向けて発信することで、自分の中にある、複雑な感情を消し去っていく必要がある。改めて、世界とは言葉だ。言葉によって、世界が世界として位置づけられていく。その言葉をどのように持つのか、そこには大きな意味がある。もしも言葉がなかったら、という問いは実は不毛だ。なぜならば、言葉がなければ、そのような問いも必然的に生まれないからだ。

 

すべては言葉が作りあげる。この胸の悩みも、悲しみも。ならば、その言葉を制御する以外に、自分の懊悩を解消する術はない。だから、言葉にする。言葉にしなければならない。強固に、言語で凝縮した世界を、今度は言葉で解凍する。獲得と喪失が、両義的に機能して、世界の混沌を鎮めるのだ。

 

 言葉にする週刊を持つことが、自分の感情を制御する上で大切なのだろう。国語とは、自分を操るためにある。ただ、言葉を表出するだけではない。複雑に入り組んだ世界を、言葉で買いたいしていく。その意味で、日々の勉強は大切だろう。例えば、辞書をめくる、新聞を読む、等である。ただし、あまりにも言葉が増えてくると、かえって悩みも増える。謎は、その謎を解こうとする人を苦しめる。しかし、人生には、解決すべき偉大なる謎がある方が面白い。ある程度の負荷が、人生を美しく、メリハリのあるものにするのかもしれない。そのバランスをどう取るのか、そこが問題なのだろう。

 

 言葉を練り上げるなかで、気付くことも沢山ある。目的があって、文章を書くという人も多いかもしれない。もちろん、その目的性は、必然だ。しかし、逆もまた真である。すなわち、書くことによって考えることができる。目的と行動は、この時不思議と合致する。書くという事実によって、考えるという事実をたぐり寄せることができるのだ。

 

 その手段と目的の逆説的な一致。だからこそ、書くことが必要なのだ。呆然と思考を巡らせることも大切。しかし、文字として書き残しておくことも大切だ。

 

 この動作は、別段読み手を必要としない。無論、文章であるのだから、読者は想定されるべきだ。それは想定的読者といってもよく、事実上の読者である必要もない。世界には一生かけても処理できないだけの文章が溢れていて、ここで文章を練り上げたところでそれを目にする人はほとんどいないだろう。私が、特別な肩書きをもった立場にいない限り。専門性が文章の中にある必要ない。ただ、常に心を正常に保つためには、膨張しすぎた言語は、適宜言葉に落とし込んで、客体化することによって、うまく折り合いをつけていく必要があると思う。

 

 世界が多様化するのかで、人々の摩耗も一昔前とは比べものにならない。些末な問題が、大きな事態へと発展することも少なくない。トラブルをすべて避けて、生きていくことはできない。どこからで人はつまずいてしまうものだ。もしくは、つまずかされてしまう。

 

そのような状況の中でうまく自分をコントロールしていく。その意味で、言葉にしていく力。それが重要になるだろう。