国語科教員メモワール

国語科教員として感じたことを書いていきます。

選ばれること

 選ばれることが大切。どんな時でも、あらゆる選択肢において、自分が残り続けることが大切。学校の教員は、実は「選択肢」に残り続けてきた人間なのだ。現代の言い方に変えれば「陽キャ」ということになるだろう。

 

 陽キャの定義は、人によって多様だとは思うけれども、その存在はきわめて相対的な位置づけになる。世界から、阻害され、選択から落ちた人間は実に多い。多いといっても、それは少数派だ。人は、世界のいずれかの選択肢に掬い上げられ、その選択の結果に自我が紐付けされ、広範な世界の隅っこでも自分の立ち位置を求めることができる。

 

 しかしどうだろう。真実において、選択されないで、世界の底にまで濾過され続ける人間がいる。真皮が剥がされ、ただ孤独が露見する。そういう人たちは、闇の力にとらわれやすい。彼らは、自死を選択肢、犯罪へと向かう。彼らが他人を傷つけるとき、それ以上に自分を攻撃し続けるのだ。

 

その連鎖を止めなければいけない。しかし、「選ばれしもの」に、その連鎖を止められない。その鎖は可視化されえない。自己の体験と照応する形で、社会の動静の中から引き出していく必要がある。感覚、としかいいようのないものだ。「持つもの」と「持たざるもの」。二種の人種が、奇妙な饗宴を果たす。持たざるものは不可視の使徒。見えないものは、やはり見えない。それに気付くのは至難の業だ。

 

 選ばれることは大切だ。それは、むしろ必定ですらある。しかし、残置された勝者が構成する公共は、やはり奇妙な造形物であるようにしか思えない。それは、広義の意味で多様性を欠く。もっと、敗者を引き入れなければいけない。下降する人間の、世界の引力で引き剥がされる裸の自己を、知る人間を。