国語科教員メモワール

国語科教員として感じたことを書いていきます。

問題を作ること

 国語の能力とは色々なものがある。多くは、読むとか書くとか、そういった一般的能力に類するものだ。もちろん、それらの能力が大切であることには一抹の疑いもない。ないのだけれども、それが本質なのかというとそうでもない気がする。


 必要とされる能力は時代によって、変わっていくのは百も承知だが、昨今の情勢を踏まえて、今必要なことはタイトルにあげた「問題を作ること」であるような気がする。問題を作る、とは何も、中間試験や期末試験の問題を自作することではない。ここでいう「問題」とは、直近で解決すべきククエスチョンではなく、長期的に取り組むべきタスクである。このタスクを発見する力が、国語として必要な能力として、重点的に取り上げられてもよいのではないだろうか。そう思う。


 国語の問題は常に一過性だ。すなわち、再現性がない。「~の気持ち」を選べ、なんて、よくある問題の一つだが、それらは一回回答を知ってしまえば、次にゴトウを選択することは限りに無く難しい。回答を知るということは、すなわち、考える手間を全て捨てるということだ。その「楽」を一旦知った後に、元通りの選択肢をフラットな気持ちで吟味することは難しい。すべては、もう終わったことであり、その選択肢が、改めて自分たちのもとに現れることがない。すべては、一期一会のものなのだ。一体、その選択肢を選ぶ能力にどのような意味があるのだろう。
 それは、全く意味がないとうことではないのかもしれない。問題を解く、というのは、已然として、多くの入試システムが才能している形式だ。そのシステムうに適応していくというのは、豊かな人生を切り拓いていく上では必要となる能力なのだろう。
 しかし、それを手放しで喜んでもいられない。おそらく、時代はもっともっと急速Ⅱ辺かを遂げていくだろう。学校で、古文漢文を読むこともいずれ時代が、それを許さなくなるだろう。断言はできないが、昨今の教育論壇においては、それほどの革命が常に起こっているということを忘れてはならない。世界はどんどん形を変えていく。そのかたちに適応していく能力が大切なのだ。


 その意味で、問題を解く、ではなく、問題を作り出すことが大切。という冒頭の主張になる。問題を抱くとは、ただ反発を抱くということではない。不満をぶつけることは、疑問を持つことではない。批評家であっても、批判者であるな。限りなく創造者たれ。そう私は思うのだ。えそのための力を養うのが、学校教育の今後のビジョンであり、国語科教育の持つミッションなのでは無いかと思う。


 もちろん、問題を作る上では、問題を解く能力が必要なのかもしれない。しかし、その解決能力の向上に関して、多くのリソースが裂かれているのは間違いがない。
 その能力の多寡は、創造力の貧富と連関性があるのだろう。社会の上で、パスポートとして学歴が左右されるという意味において言えば、間違いなく有用だ。しかし、あらゆるシステムから脱却する中で、自分らしく自分の言葉で表現する能力は、必ずしも、学歴の土台とするものではないような気がする。 


 問題を作る、というのは要するに問題を発見することである。発見をするには、社会全般における諸事象についての知識が必要になってくる。つまり、「点」としての理解だ。それらの点を複数でつなげ、「面」とする。そのなあkで見えてくる映像こそが、弦社会が持ちうる問題なのだろう。その複線的に物事をつなげ考えていく力こそが、今後求められていく力なのだろう。

 今後求められていく力とは、すなわち、AIによって代替されない能力という意味だ。点としてAIは強い。ならば、面ではどうか。

 今、複雑な世界を単純かし、その問題を発掘する力が求められている。