国語科教員メモワール

国語科教員として感じたことを書いていきます。

詩人のたしなみ

 詩人であれ。詩人は、良い。それは言葉を操れる。言葉を操ることは、同時に世界を操ることにつながる。複雑に世界を語ることも、単純に世界を閉ざすこともできる。生み出すことも、また、壊すことも。すべてを自由にできるのだ。

 

 唯名論の使者、朝を告げる小鳥たちの群れ。愛と悲しみのバベル。

 

 詩人は、場所を選ばない。世界は、その知性の中で生まれる。始まりと終わりが交錯する。生命の輪廻が顔を覗かせる。

 

 詩人は出会い、そして別れる。新しい自己に目覚める。他者が、自己に環流される時、人ははじめて人になる。詩人は、言葉で自分を作りあげるのだ。それは鹿の骨で作る呪いのようであり、鉄の芯で組み上げる近代のようでもある。それは儚く、そして屈強だ。

 かつて、街には巨人が闊歩した。豪腕を古い、権力を握った。砂上の楼閣で、未来を占ったのだ。占術が横行し、不安が話題の種になる。憎しみを売買して、愛を物々交換する。

 

 詩ならば、許容される。あらゆる、憎悪も、また愛惜も。

 

 人は、如何にして詩人になるのか。難解な問いだが、答えはシンプルだ。人は、落ちていく。日常から足を滑らせて、不意に、そして偶発的に。それは不可避なる自己だ。望むと望まざるとに関わらず、混濁し、合成される。非日常が、日常に組み込まれる時、物事の対象化が不可能になる。世界は混線し、曖昧になる。世界を宇宙の果てまで、伸ばしていってもなお、その世界は世界であり続けるのだろうか。

 

 言葉の連結の中に、わずかは意味が生まれ、その矮小な意味から、遠大な宇宙を夢想する。空の果てへの改案は、まるで鳥の足跡しかないように、はかなく脆い。砂浜に描かれた大地の記憶は、全て波がさらっていってしまった。文字として、残らない記憶。しかしそれを誰も否定できない。概念としての実態が、物質としての虚構を越えていく。

 

 世界の端っこから落ちてしまった。そして、人は詩人になる。詩人にならざるを得ない。人前で、思い切り泣けたなら、どんなにか楽になれるだろう。人前で、寂しいと告げることができたなら、どんなにか人間らしくなれるだろう。

 詩人は、不器用なのだ。他人に甘えられない。他人を信用できない。言葉を介さなければ、人を見つめることもできないのだ。愛が身体の心の交流を指すのであれば、詩人は愛を知らない人間なのだ。愛は心理か、はたまた、心理こそ愛なのか。その逆説を撫でるのが、詩人なのだ。無だからこそ有を見る。はかない世界だ。

 しかし、それはある。それを、言葉に変換する。詩人の生き方の醍醐味だ。うつろいゆくもの。滅びゆくもの。視界のかすかに留まりゆく、素粒子のような情念。言葉で、それらを掬い上げ、つり上げる。抱擁を交わし、茫洋たる世界を、身近な四畳半に美しく収めるのだ。

 詩人のたしなみ。それは、世界を溶融し、新たに世界を再構成する。新たな創世が、個人の狭量な世界の中で行われる。しかし、だからこそその世界は豊満で、甘美だ。自己の内側にできる小さな小部屋。

 詩人は、その小部屋に沈潜し、熟考する。正しい世界はどこにあるのだろうかと。正しい答えなんてないと気付く頃には、詩人の人生は幕を下ろす。人知れず、夜のとばりに閉ざされて。闇の中で歌う。言葉なくても、言葉を越えて歌う。世界に隠された秘密。誰の記憶に残らない恭順の情。

 

詩人は静かに世界を暴く。誰にも悟られないように、誰にも批評されないように。鋭利な目で、温厚な腕で。