国語科教員メモワール

国語科教員として感じたことを書いていきます。

 朝は辞書から始まる

 朝、とりあえず、言葉を集める。空っぽになった言葉に言葉を入れる。それが朝のルーティンだ。朝、といっても休日の朝、という条件が付く。日常の朝は忙しすぎてそんなことをやっている時間はない。

 

 脳、というのはやはり学習が必要で、学習をしないと徐々にに退化していってしまう。おそらく、言葉に関わる脳の箇所も、きっと衰退していく。それは、もちろん、小説を読むだとか、文章を書くだとか、そのようなアウトプットを繰り返すことによって、維持されていくのだろうと思う。

 

 しかし、とはいっても、そのような動作は、競技としての能力を養うことと同じで、もっち根源的な筋力はそれとは別個のものとして鍛えなければならない。文章を練り上げるには、その最小単位としての語句を覚えていなければならない。

 語句がどこから運ばれてくるのか。その工程を探ることは実に難しい。例えば、テレビ等で流れた言葉を人は無意識でインプットしてしまうものだ。その意味ではそれらの行動も立派な勉強ということになる。

 

 勉強も一つのトレーニングだとしたら、問題は、負荷となる。どのような負荷をかけることによって自分を成長させるのか。その点について考え無ければならない。バラエティ番組でもおそらく自分は成長していくのだろう。間違いなく、確実に。自分は未来へと進んでいく。その意味で必ず人は接種した情報を元に成長していくはずなのだ。

 どうせ、言葉を成長させていくならば、よりよい栄養を摂取した方がいいだろう。より、確実な負荷をかけた方がいいだろう。その意味で、辞書での言葉探しを推奨したい。

 

 昨今では、もう辞書を使っている人なんてほとんどいないかもしれない。もちろん、効率という観点から見れば、辞書の使用は時代に逆行しているとも捉えられる。しかし、それはそれでいいのだ。

 

 大切なことは脳を鍛えること。その意味で考えれば、昨今話題の生成AIを使うことの是非も、それほどとやかく言う必要はないだろう。

 効率を考えれば、それらを積極的に使用するべきだ。読書感想文が簡単に書けてしまうのではないか、などと生成AIの諸問題についてよく言われるが、その問題は実に些末な問題だ。

 すなわち、読書感想文を辞めればいいのだ。目的は、脳を鍛えること。表現者としての素養を養うこと。その目的を、完遂させることができれば、何も読書感想文でなくてもかまわない。本を読まなくなる、という指摘もあるが、読書感想文だけでしか本を読まない子どもは、そもそも読書感想文を採用したとて読書の習慣がつくことはないだろう。

 問題の根っこは別の場所にあるのだ。その根っこにある諸問題を丁寧に処理しなければ、複雑に文化した問題に対応していくことはできないだろう。

 辞書を使うこと。さらに言えば、習慣として読むということはちょっと普通の人からすると考えられないかもしれない。とはいえ、時刻表を見て、楽しめる人がいるように、辞書を見て楽しめる人もいるのだ。色々な価値を認めること。それが多様性の本来の在り方だろう。

 なんとなく眺めている。それだけでも勉強になる。そして、世の中には本当に多様な辞書が出来ているものだ。そのような分野を限定した辞典を覗くと、自身の世界の広がりを確認することができる。それと同時に、いかに自分の世界が語義の上で狭隘なものであったかを自覚させられてしまうのだ。

 一杯の珈琲の前に、一見の辞書。そんな習慣を持つことも悪くない。