国語科教員メモワール

国語科教員として感じたことを書いていきます。

文章を書くこと。ブログ事始め

 結局、文章を書いているのが好きで、それだけでいいのかもしれない。書くことに意味があるとは思えないし、書き続けることによって幸せになるとは思えないしかし。それを続けることで、自分がとっても幸せになっているように感じる。とにかく、自分の思いを言葉に載せる。多少の誤字脱字は気にしなくてもよい。それはきっと、人間の領域ではなくて、機械の仕事になるだろう。


 記録を残していくことが大切だと思う。それは、昼間の仕事ではないのかもしれない。昼間の、おっくうさは一体どこから来るのだろう。自分が狭くなるかんじtがする。とにかく、今は、事aを増やしていく必要がある。短い言葉で、単純な言葉で。正しい世界を描きたい。もっと、地涌でいいのかもしれない。なんでもいいから、書けばいいのかもしれない。目的を持って描ければいいのかもしれない。
 心機一転の投稿。毎日を述べていく。日常を言葉にする。
 国語教員として、伝えるべきことを、書き尽くす。それは他人に、向けた言葉にならないかもしれない。もしかしたら、自分の自己満足で終わるかもしれない。しかし、それを残すことに何が意味があるのだと重う。


 武将を書くことは、自分の頭の中を掃除することだ。ただ、目的的に書けばいいというものでもない。さすらうように、重いついたことを核ことも大切だ。


 もちろん、国語科として、書くことは何寄りも大切だ。国語を通して日々感じること、これからの国語について。そして、自分が見聞きしてきた、様々な情報。それらを伝えていきたい。それが自分を支える力になる。無数の言葉が頭の中を這いずり回っている。小さな虫のように、脳裏をぐるぐると言葉が明け回る。それはきっと、国語科としては、ある程度必要な力なのだろうと思う。しかし、
あまりにも、その虫が頭の中を這いずり回るようでは問題だ。それらをある程度は駆除しなければならないだろう。それを可能にするのは、この文章を書く、という行為なのだと思う。思考の虫を、駆除するに必要なことはやはり思考することなのだ。そして、それをより確実に行うのが、おそらく「書く」ということなのだ。


  書くことは、きっと読むことにも繋がる。アウトプットをするためには、インプットが必要不可欠だ。どこかで、自分の発想を練り上げるための秘密基地があってもいい。その秘密基地は誰にでもあるわけではない。その基地ができるのは、ほとんど、人間関係等によるものだと重う。しかし、だからこそ、この場で、ネット空間の中に自分の言論スペースを保っておかなければならない考えた。誰にでも、気兼ねなく自分の言葉を発信することができる場所を、持つことによることで、自分の精神の安定にもつながる。


 普段は、学校で勤めていても、必ずしも自分の思った通りに、授業を進めることができるわけではない。人間関係が十全に進むわけではない。教科としての理解や、指導技術が最高潮に達しているわけでもない。むろん、プロフェッションとして現場に立つわけなので、ある程度の地検を蓄えているつもりではある。ただ、それはあくまでもつもりになっているだけかもしれない。


 教育とは、なんて甘美な響きで、それでいて、なんて不安定な響きあろう。わかっているようで、わからない。そして、それらを行う必然性ももうないのかもしれない。AIがどこまで人を成長させうるのか。その能力を今後、どのように押し量るのか。考えるべきことは多い。いや、考えるからこそ、考えることが多いことに気付いたのだ。思考するプロセルを持つこと。それが自分に必要なことで、このブログを薦めていく意味である。忙しさにかまけて停止となる可能性もあるし、そうかもしれない。でも、書くことが必要だ。今の自分にはそれが必要だ。